Meister
#10

歴史が残した一筋の光を歌い継いでいく。
加藤登紀子が考える、歌うことの意味とは

加藤登紀子|シンガーソングライター

東京大学在学中に日本アマチュアシャンソンコンクールで優勝し、今年デビュー58年目を迎える加藤登紀子さん。シンガーソングライターとして『知床旅情』や『百万本のバラ』などの代表曲のほか、スタジオジブリ作品『紅の豚』では、声優としてマダム・ジーナ役と『時には昔の話を』と『さくらんぼの実のなる頃』を担当。これまで数多くのヒット曲を世に送り出しました。昨年はウクライナ支援CD「果てなき大地の上に」をリリース、著書「百万本のバラ物語」を出版。5月26日にはこの作品にそったコンサートを東京フォーラムCなどで開催します。また加藤登紀子さんが生きた時代は、女性のキャリアデザインが今ほど進んでいませんでした。そんな中、どのように生きていたのか。加藤さんが生涯をかけて歌を通じ、伝えたいこととは?しなやかに進化し続ける加藤さんに、よりよく生きるヒントを伺いました。

ソプラノが女性らしいとされた時代に、アルトを評価されたことが自信に繋がった

第二次世界大戦末期、加藤さんが産声を上げたのは中国のハルビン(旧満州)でした。元は寒村だったハルビンは、1900年初頭、ロシア帝国によって建設されました。都市やインフラ整備のために移住させられた人の多くは、ウクライナ人やポーランド人、ユダヤ人だったといいます。日露戦争後、多くの日本人がこの地に渡ることになりました。加藤さんの父・幸四郎さんもその一人。幸四郎さんは、両国の相互理解のために創設された日露協会学校(ハルビン学院)に入学し、ロシア語を学び、ロシア音楽に親しみます。日本に引き揚げた後は、レコード会社勤務の傍ら、東京・新橋にロシア料理店「スンガリー」を開店(現在は、新宿に移転)。

店には日本に引き揚げてきたロシア人たちが集まり、やがて文化人が集まるサロンへと進化していったそうです。そんな環境の中で多感な時期を過ごした加藤さんは、ダミアやエディットピアフといった偉大なシャンソン歌手に傾倒していくことになります。

やがて自身も歌手としてデビューすることになるのですが、幼いころは声にコンプレックスを抱えていたこともあるそうです。

「最近は、いよいよシャンソン歌手の声になってきましたねなんて言われますけど、子どもだったころは声が低いのをコンプレックスに感じていたんですよ。コンプレックスが自信に変わったのは、高校の音楽の先生に「君は相当いいアルトの声だ」と褒められたこと。当時は高い声の人が花形だったので、あまりピンと来ていなかった記憶があります。でも、私の声をほめてくださったことが見えない自信に繋がっていったんだなと、今では思います」

加藤さんが青春を過ごしたのは、終戦から急速に社会が変わり、女性の社会進出が劇的に始まった時代。それでも大卒の女性の就職が難しかったり、お見合い結婚が一般的だったり、古い部分が残っていました。ソプラノ=女子という風潮が当たり前であった中、加藤さんの声が評価されたことは幸運だったのかもしれません。

子育てをしなければ気づかなかった、女性と社会の結びつき

「実を言うと、私自身はジェンダーで窮屈さを感じたことはあまりないの。『東京大学を出た女性歌手』というだけで、マスコミが大騒ぎしてくれて、幸運なデビューだったしね。一方で、私は自分で子育てするようになって、主婦ってすごい社会参加だなって思いましたね。それまでは教育や食や農業の問題について、深く考えてなかった。でも生命を育てるためには教育も食も、知らないではすまされない。保育園や学校、先生やお医者さんとのやりとりから、ワクチン接種をどうするかといったあらゆることを経験していく内に、「社会に参加しているんだ!」と実感しましたね。夫は古い考え方で、育児に協力しない人だったから、保育園の送り迎えなどを強要することはしなかったのですが、ずるいと思っていましたよ。でも、今ふりかえると、それ自体が猛烈な社会参加であり、私にとってすばらしい時間となりました。今は孫と遊ぶときを“社会見学”と呼んでいます(笑)」

加藤さんが子育てを通して初めて「社会との繋がり」を意識したように、本当は生活事に女性が一番関わっているのにも関わらず、社会や政治は男性主導のものになっています。その状況は少しずつ変わり始めている一方で、「男性」「女性」の性を巡る不協和音は続いています。

「ジェンダー問題は両刃の刃」と前置きをした上で加藤さんが引き合いに出したのは、女性の社会参加が妨げられていた状況下で、女性が革命的に自由に目覚める姿が描かれた、20世紀初頭の作家ロマン・ロランによる『魅せられたる魂』。

「『魅せられたる魂』では、男性に従属する世界から女性が一歩先に進んでしまうと、男性はその女性の新しさについていけなくなる。こうして20世紀はずっと男女のすれ違いが続いていくだろうと書かれているのですが、ばっちり当たっていますよね(笑)。女性は組織の中で縛られるよりも、そもそも自発的な力が強い。今あるジェンダーの問題は、どんどん自由になる女性が飛びつきたくなるような、新しい生き方をする男性像が生まれていない現状にあるんじゃないかと思いますね」

歌で道を切り拓き、世界有数の舞台であるカーネギーホールへ

加藤さんの代表曲『百万本のバラ』は、男女のすれ違いをロマンティックに歌う失恋の歌。ですが、その原曲はラトビアの悲劇の歴史の哀しみを子守唄として歌い上げたものでした。やがて曲のメロディーは保ったまま、ロシア人の詩人によって『百万本のバラ』へとリデザインされます。皮肉にもラトビアの侵略者側であったロシアで人気を博すわけですが、そのロシア詩人はロシアの体制派の弾圧から逃れた先で作詞のヒントを見つけています。

数奇な変遷を辿る『百万本のバラ』が、ハルビンで生を受け、ロシア音楽を愛した幸四郎さんの元で育った加藤さんと出会ったのは、必然とも言えます。

「私と同じように満州からの引き揚げを経験している森繫久彌さんから、『君の歌はツンドラの冷たさを知っているね』と言われたことがあったの。私のバックグラウンドにある質感みたいなものが、『百万本のバラ』と共鳴していたのかもしれないですね。1988年にカーネギーホールで歌った時も、『百万本のバラ』は一気に会場をひとつにする力のある歌でした

日本人女性として、初めてカーネギーホールで公演した加藤さん。カーネギーホールはクラシックや現代音楽の偉人が公演してきた、世界でも有数の権威あるコンサートホールです。注目を集めた公演には、アメリカの大手有力紙であるニューヨークタイムズの記者が取材にやってきました。ただし、加藤さん御本人に接触することはなく、評価対象とされたのは純粋な「歌手」としての実力でした。

ニューヨークタイムズに掲載された公演の記事の中で、加藤さんは “シャントゥーズ・トキコ”と評されました。日本人でありながら、シャンソンの歌い手=シャントゥーズとして認められたのです。その後、何人かの日本人女性歌手がカーネギーホールの舞台に立つことになりますが、この時の加藤さんの公演がその道を切り拓いたのかもしれません。

「抑圧された時代に、言いたいことが言えるのが子守唄だったと思うんです。『百万本のバラ』は華やかなステージに似合う歌ですが、その出発点が子守唄だったことに強いメッセージ力があったのかもしれません。子守唄を歌う時って暗闇の中で、たった一人で歌うでしょ?歌手の加藤登紀子じゃなく、ただの一人の女に帰っているわけです。そういう無名性が子守唄にはあります。この曲が生まれて、地面に種が植えられて、みんなが涙を流し、その種が育つような地の底から湧き出した歌だなと感じています」

説明しなくても心で伝わるものが、本当の歌。歌が人の愛や思いを伝播していく

1992年、加藤さんはスタジオジブリ作品『紅の豚』でヒロインの1人であるジーナを演じました。『紅の豚』では声優だけではなく、歌手として劇中歌と主題歌を提供。それがエンディングテーマであり、加藤さんのオリジナル曲である『時には昔の話を』。そして、『さくらんぼの実る頃』です。

『さくらんぼの実る頃』は、世界最初の労働者政権であり悲劇的な末路を辿ったパリ・コミューンとの関りが深く、現在にまで残っている世界最古のシャンソンと言われています。

歌を歌い継いでいくことの意義を、加藤さんはどのように捉えているのでしょうか。

「『さくらんぼの実る頃』はパリ・コミューンで死んでいった人の鎮魂歌なんですですね。素晴らしい自由をかかげた夢のような革命です。でもその後の第一次大戦でヨーロッパはめちゃくちゃになってしまいます。第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の人類史が経験したもっとも暗い歴史。それが紅の豚の時代なんです。でも、そこに登場する人たちはみずみずしく、すばらしい。監督の宮崎駿さんも、「どんな時代にも、美しく生きようとする人がいていいじゃないですか」と仰っていました。『さくらんぼの実る頃』は、宮崎さんからの提案で歌うことになったのですが、よくぞ私に歌わせてくれたなぁと思います。私の中にある大事な1本の地下水のようなものが、『さくらんぼの実る頃』を通って、『百万本のバラ』を通って熱い流れの1本になっています。その間いくつか通る道もありましたが、今の私を形作る重要なピースのひとつになりました」

今年5月に東京国際フォーラムで開催予定のコンサート『百万本のバラ物語』は、第一部は「5月の空に」、第二部は「ジーナの見た世界」で構成されています。

「5月の空に」に込められたイメージは、人類史の中で、虹色の世界が射した美しい歴史のひとつであるパリ・コミューン。そこでは、『さくらんぼの実る頃』を歌う予定だといいます。

「ジーナの見た世界」に込められたイメージは、1920年から大事に世界大戦が終わるまでの時代、あの中で人々は何を見ていたのかということ。

「『紅の豚』の舞台になったのは1920~1930年代です。『さくらんぼの実る頃』は、舞台となった年代よりも更に前の1870年代に生まれたもの。暗い時代のひと筋の光のようなものをジーナが歌っていたことに大きな意味があると思っています。『百万本のバラ』が熱狂的にヒットしたのも、ソ連が崩壊していくひとつの大きなきっかけです。ひとつの光が射して東西冷戦が終わり、ベルリンの壁が崩壊し、世界は自由と解放の方向へスタートしました。それを象徴しているのが、『百万本のバラ』なんです。でも、30年余り経ってウクライナで戦争が起きて、光の射す期間は短かった。『さくらんぼの実る頃』に関しても、かつてのパリ・コミューンはすばらしい歴史でしたが、あまりにも短く、72日間しかなかったんです。それでも、たとえ短い間だったとしても、みんなで夢を見た貴重な歌として、これからも歌い継いで歌い続けなくちゃならないと思います。『さくらんぼの実る頃』が150年も時が経った今も、ひと筋の光る瞬間をこの歌が伝えてくれているように」

歴史を点のものにするのではなく、線としてこれからも継いでいくために歌う。その在り方は、歌手という職業をリデザインしているようにも感じられます。

加藤さんが歌に込める想いを感じ取り、コンサート中に感極まって涙する人もいるそうです。歌い手の加藤さんも、時々嗚咽してしまうことがあるのだとか。その熱い想いは言葉や国境を越えることも。

「戦後の中国が開放政策に転換したばかりの頃にコンサートを開催して、人民大会堂で歓迎会を開いていただいたんですね。現地の作曲家や音楽家が参列したんですが、その中の一人のピアニストのことを今でも覚えています。彼も曲の世界観を思い浮かべながら演奏するそうなのですが、『あなたの歌を聴いていたとき、言葉はわからないけど、あなたが歌っていることと、あなた自身が歌いながら思い描いている両方の映像が見えました』と言われたんです。それを聞いてびっくりして、思わず彼に走り寄って抱きしめてしまったほど。おそらく私がハルビンで生まれて、戦争が終わって2歳のときに日本に引き揚げた事情も知っていたとは思うのですが、海外だと特に言葉を超えて通じ合える不思議な感覚がありますね」

正しいことをアテにせず、光を感じられる方向に。加藤登紀子さんのリデザイン。

「気まぐれに生きること。私はよく夫から昨日と今日と言っていることが違うと怒られていました。そのたびに、『だって今日の方がすてきだからよ。昨日のことは忘れてちょうだい』と答えていました。私の場合、すてきなことを瞬間的に思いつくんです。光は消せません。写真を撮るときもそうですけど、どんなときも、どの方向から光が来ているかを感じられないとダメですね。問題が起きたときも、どっちの答えがハッピーかが大事で、楽しい方を選びましょう。正しいなんてことをアテにしちゃダメ。正しいかもしれないから、暗い方を選ぶんじゃなくて、今は正しくないと言われているかもしれないけど、こっちの方が光を感じられるなと思う生き方をしてください」

Profile

加藤登紀子|シンガーソングライター

1943年ハルビン生まれ。

1965年、東京大学在学中に第2回日本アマチュアシャンソンコンクールに優勝し歌手デビュー。

1966年「赤い風船」でレコード大賞新人賞、1969年「ひとり寝の子守唄」、1971年「知床旅情」ではミリオンセラーとなりレコード大賞歌唱賞受賞。

以後、80枚以上のアルバムと多くのヒット曲を世に送り出す。

国内コンサートのみならず、1988年、90年N.Y.カーネギーホール公演をはじめ、世界各地でコンサートを行い1992年、芸術文化活動における功績に対してフランス政府からシュバリエ勲章を授けられた。

近年は、FUJI ROCK FESTIVALに毎年出演し、世代やジャンルの垣根を超え観客を魅了し続けている。

また年末恒例の日本酒を飲みながら歌う「ほろ酔いコンサート」は2022年に50年を迎え人気のコンサートとして定着している。

歌手活動以外では女優として映画『居酒屋兆治』(1983年)に高倉健の女房役として出演した。

宮崎駿監督のスタジオジブリ・アニメ映画『紅の豚』(1992年)では声優としてマダム・ジーナ役を演じた。

地球環境問題にも取り組み、1997年WWFジャパン顧問及びWWFパンダ大使就任。

2000~2011年には環境省・UNEP国連環境計画親善大使に就任。アジア各地を訪れ、自らの目で見た自然環境の現状を広く伝え、音楽を通じた交流を重ねた。

私生活では1972年、学生運動で実刑判決を受け獄中にいた藤本敏夫と結婚し長女を出産。現在 子3人、孫7人。

次女Yaeは歌手。

夫・藤本敏夫(2002年死去)が手掛けた千葉県「鴨川自然王国」を子供達と共に運営し農的くらしを推進している。

 

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