Meister
#05

何歳になっても、「今」が原点で現点。
コシノジュンコのライフデザイン

コシノジュンコ|デザイナー

文化服装学院デザイン科に在学中、新人デザイナーの登龍門とされる装苑賞を最年少の19歳で受賞し、脚光を浴びて以来、今もなおトップランナーとして走り続けているコシノジュンコさん。1978年から22年間連続でパリ・コレクションに参加。ニューヨークメトロポリタン美術館をはじめ、北京、ベトナム、キューバ、ポーランド、ミャンマーなどの世界各地でファッション・ショーを開催。ファッションを通じた国際的な文化交流に力を入れています。近年ではオペラ『魔笛』『蝶々夫人』、ブロードウェイミュージカル『太平洋序曲』、DRUM TAOの舞台衣装デザインをはじめ、花火のデザインや国内被災地への復興支援活動も行っています。ファッションデザイナーという枠に囚われることなく、歩み続けるコシノジュンコさんに、人生をよりよく生きるヒントについてお話を伺いました。

生まれたときから洋裁の現場が身近に。服に囲まれた幼少時代が「コシノジュンコ」の原点

コシノジュンコさんが生まれたのは、だんじり祭で有名な大阪・岸和田市です。NHK朝ドラの『カーネーション』のヒロインのモデルとしても有名な母親小篠綾子さんは、商店街の真ん中で洋装店を営み、後に世界的ファッションデザイナーとして活躍する、ヒロコ、ジュンコ、ミチコのコシノ3姉妹を女手ひとつで育て上げました。生まれたときから洋裁の現場が身近にある。その原体験が子供たちに与えた影響は計り知れません。

「朝ドラの雰囲気そのままなのですが、母は仕事に没頭していて、私たちのことはあまり目に入っていなかったかもしれません。ただ、今思えば、母が仕事をする姿をリアルに目の前で見て育ったことが、大きかったように思います。家庭ではなく仕事場で生まれて育ったような感じでした。当時は、10人くらい働いていて、夜になると仕事道具を片付けて、そこで食事して、最後はお布団を敷いて寝るみたいな生活。縫い子さんと一緒に寝たこともありましたね」

「ミシンの下で端切れを拾ったり、積まれた生地の裏でかくれんぼして遊んだりしました。そんな環境だったから、洋服を作ることは難しいものだと思っていなくて、生地を輪っかにして縫ってゴムを入れて、小学校3年生のときにはスカートを作っていましたね。あるとき、四角い布にファスナーを付けてバッグを作りました。一人で店番をしているときに、こっそりそのバッグも置いておいたら、お客さんに「これ、いくら?」と言われたんです。結局、値段が言えず、売れたわけではないのですが、嬉しかったですね」

幼いころから自然とモノ作りを行っていたコシノジュンコさんは、その傍らでさまざまな習い事もしていたそうです。そうした経験が国内外問わず、幅広いジャンルで活躍するための教養を育む土台になったのかと思いきや、「多く習い事をしていて忘れてしまった」とコシノジュンコさんは笑います。

「そろばん、お習字、それから絵でしょう。お茶、お花、ピアノ、日本舞踊、バレエ……、11個くらい習い事をさせられたので、忘れちゃったわ。親の教育というより、母が仕事をしやすいように行かされたんですよ。近所の先生が洋服を作りに来ると、うちの3姉妹を習わせに行く交換条件みたいなかたちでお客さんをつなげていたフシがあります。うちの母ってちゃっかりしているんですよ。そうとしか、今は思えないわ(笑)」

同業者よりも、異業種の人たちに囲まれていた。時代を拓いたコシノジュンコの交友関係

やがて母と同じファッション・デザイナーの道へ進み、文化服装学院に入学したコシノジュンコさん。1960年に新人デザイナーの登竜門の装苑賞を史上最年少の19歳で受賞し、一気に頭角を現します。

デビュー当時の1960年代は、あらゆる文化の始まりともいえる時代。もはや戦後ではなくなり、ビートルズが来日し、マクドナルドが日本で初めてオープン。カラーテレビの放映が始まったのもこの時代でした。日本初の体験が次々と生み出されていく中で、初仕事は、一世を風靡したグループサウンズのアーティストの衣装の制作だったそうです。

「タイガースから始まって、片っ端からグループサウンズの衣装を作っていました。メンズの衣装を作っている意識はなくて、今頃になって、あの人たちはみんな男だったということに気がつきました。当時はまっさらで、モノ以前にコトがそもそもなかったから、何でも新しかった。新しく開拓するために意気込むというより、過去に例がないからやる感じでしたね」

1980年代のコシノジュンコさん 出典元:コシノジュンコ 56の大丈夫(世界文化社)

時流に乗りながら、デザイナーとしての道を着実に歩んでいく中で、70年代は大阪万博、80年代にはつくば博、90年代になるとJリーグが発足。2000年代は沖縄サミットがあり、その時々の時代を象徴するビッグイベントの服飾デザインを手掛けてきました。ジャンルを超えて活躍できた秘訣は、枠にとわられない考え方にありました。

「私、同業者同士で固まるのが嫌いで、昔から交友はジャンルを超えて幅広いんです。なぜかというと、同業者の家に生まれているから、そもそもファッション・デザイナーに憧れなんてないんです。20代のころは、当時ヒット曲を連発していた売れっ子作詞家の安井かずみさんと仲が良くて、まだ誰も外国にさえ行ったことがない時代に、ニューヨークやパリに一緒に行ったり、ニューヨークに住んだり。普通の20代では考えられないことをやっていましたね。今はTBSラジオのパーソナリティをやっていて、これまで200人近くゲストをお招きしましたが、みんなジャンルの違う人たちばかり。これまで関わって来た万博などの大きなイベントにしても、なんにしても、周りにいるご縁のある建築家などのお友達が、そういうことに関わる人たちでした」

親友、安井かずみさんと 出典元:コシノジュンコ 56の大丈夫(世界文化社)

そうした人々の輪の中にいることが、時代を拓いていくことに繋がる。そう話すコシノジュンコさんの目は力強く、今もなお現役であり続けるエネルギーを秘めていました。コシノジュンコさんは今年の4月に「原点から現点」という展覧会を実施。「今」を全力で生きるコシノジュンコさんにとって、現点は常に原点とも言える。そんな意味が込められているのかもしれません。そんなコシノジュンコさんの『原点』と『現点』について更にお話いただきました。

ショーをきっかけに文化交流を。世界を駆けるコシノジュンコのファッション・ショー

「私はそもそも油絵をやっていて、美大志望でした。だからデザインの原点は、基本的なデッサンなんです。デッサン力があると、ブレないなと今も実感しています。それから、頭の中を整理することも大事。頭の中には今までの経験が山ほどありますから、デッサン力と経験を掛け合わせて、常に人とは違うことやってきました。何かに影響されて似たようなことをしていては世界に通用しないですからね。過去を踏襲するのもいいけれど、もう一回繰り返すことには疑問があります。だって、時代は毎日変わっていくし、その違いが魅力でしょう?」

ファッションデザイナーであれば誰もが目指すパリコレに進出する一方で、中国では最大のショーを、ベトナムでは日本人としては初めてのショーを、さらに外国人としては初めてキューバでのショーを成功させました。その中でも中国でのショー開催は、日本人の原点を追い求めていたことがきっかけになったのだそうです。

「日本のルーツを研究しようと思ったら、中国に行き着いたんです。というのも、パリコレに初めて参加するとき、日本をテーマにしようと思ったけれど、すでに友人の高田賢三さんがやっているので、同じことをしたくなかったんです。それならば日本のルーツである中国に一度行ったみたいと思い、いざ行ってみたら、文化大革命の後で、本当になんにもなくて。自分の夢が冷める勢いで、えらいところに来てしまったと思いましたね(笑)。でもね、あるとき万里の長城に行った帰りのタクシーで聴いた曲がすごく良かったの。瑶族舞曲(ヤオぞくぶきょく)の『幸福年』という曲で、どうしてもこのレコードを買いたくて、身振り手振りで運転手に伝えて、タイトルを教えてもらったんですが、そもそも中国にはレコード屋がなかったんですよ。そこで北京中心部の繁華街にある王府井(ワンフーチン)という通りで、「これ、どこで買えるの?」と道行く人に聞いてまわったら、本屋にあることがわかり、お店の隅っこで見つけることが出来ました。ちなみにこの楽曲は、初めて参加したパリコレのフィナーレに使っています」

そして文化大革命後、多くの人が人民服を着ていた1985年、ファッションの概念やモデルの職業も確立していない時代に、中国最大のファッション・ショーを開催。「ショーをきっかけに一気に開眼し、あらゆる職業を選択する自由を示すことができた」と、コシノジュンコさんは振り返ります。その後の中国が市場経済を取り入れ、豊かになっていったことは誰もが知る事実です。

日本を代表するデザイナーとして、国内外のカルチャーに影響を与えてきたコシノジュンコさんですが、輝かしい功績の裏では、海外でのさまざまなトラブルやピンチから学んだことがたくさんあるそうです。

「パリは労働者のストライキが多いから、東京から送った洋服が無事着いて、会場まで搬入できたら、ショーの半分は成功です。前日に完璧にリハーサルしたのに、翌朝の集合時間に、モデルが寝坊して来なかったこともありますよ。すると、その子一人のために半年以上かけて作った服が出せなくなるんです。何のためにリハーサルしたか分からないですよね。以前ショーに出てもらったモデルが現場にたまたま遊びに来ていたので、急遽リハーサルなしで出てもらったこともありました」

インフラさえ整わないミャンマーでショーをやったときは、1日に5~6回の停電に見舞われたたこともあるそうです。

「停電が頻繁にあることは分かっていたので、よその村と調整して、そちらが停電している間に、電力を供給してもらう約束だったのに、やっぱり停電になってしまいました。でも、ミャンマー人のモデルは停電に慣れているから、動揺もしない。『どうするの、どうするの!?』と騒いでいるのは日本人のモデルだけ。『やるんですか、やらないんですか』と裏でもめているなかで、ミャンマー人のモデルは平然とランウェイを歩き、観衆もそれが当たり前という感じで、結局、暗がりでショーをやりました。そのうち、パッと明かりが点いたんですけど、音楽がない。日本人モデルは音楽がないと歩けませんが、停電に慣れているミャンマー人はまるで気にしていなかったので、助かりましたね」

さらに、キューバでショーをやったときは、あり得ないほど激しい台風が上陸。

1996年、キューバでファッションショーを開催

「ベトナムも中国も全部ピエール・カルダンが先にショーをやっていて、私は2番目でした。それが悔しくてね。キューバは、カルダンが9月にショーをやると聞いたから、8月末にやることにしたんですよ。そうしたら、台風が来て、この世の終わりという感じの見たこともない雷が、毎日ですよ。一歩も外に出られない状況でした。ありがたいことに、ショーの直前で雨が止んでくれて、予定どおり開催できました。振り返ってみると、いつも最終的にはショーを形に出来ていますから、ツキがあると言ってもいいかもしれません」

数々のトラブルの話をしながらも、どこか楽しそうでもありました。幸運は、そうした前向きな心が引き寄せているのかもしれません。

人生はプレゼンテーションの連続

コシノジュンコさんのポジティブさはコロナ禍でも失われることなく、次々と新しいチャレンジを続けています。たとえば、コシノジュンコさんらしい色使いでデザインされ、力強い言葉がしたためられた150本のうちわ。元々はパリの展覧会のために構想されていたそうで、コロナ禍でそれは適わないものになりました。それでもモチベーションを失うことなく、むしろコロナ禍で出来た空白の時間を利用して、一気に書き上げたそうです。その時に制作されたうちわは家庭画報「コシノジュンコのうちわ話」に登場しています。

他にもアート作品の制作に取り掛かるなど、コロナ禍を災難としてではなく、一つのきっかけとして捉えているようです。

「一日中家にいるなんて、ここ20年で初めてのこと。そんなときだからこそ、絵を描けるようになったんです。高校生のときの延長ではなく、間にまったく違う世界にどっぷりいた上で、描き始めました。こんなにいい時間を自分のものにしないともったいないと思って、今までやりたくてもできなかったこととして、これまでたくさん貯めてきた言葉や写真を整理して書いたのが、この本です。高田賢三さんや安井かずみさんの写真を人ごとに分けてみたら、それぞれ1箱分もあって、整理するのが面白くて。この際だから、私が書いた本に載せることにしました。写真と文章はまったく関係ないんですけどね。こうしたユニークな発想は、コロナだからできたことだと思います」

そうして2021年に上梓されたのが『『コシノジュンコ56の大丈夫』です。「大丈夫」という言葉に込められた思いをコシノジュンコさんは語ってくれました。

「『大丈夫』という字には『一人』が含まれているでしょう。これは『みんなで渡れば怖くない』ではなく、『一人が大切』ということなんです。『一人』という字が『人人人』にかかっているから、人のために自分がいるということ。だからこそ、何のために仕事するか、いかに人の役に立つか?ということが大切だと思うんです」

振り返ってみると、これまでのコシノジュンコさんは『一人』で次々と新しい領域を開拓しながらも、その周りには様々な『人』との関りがありました。そうして自分だけの世界観を創りあげてきたからこそ、今もなお活力に満ちているのかもしれません。

2022年9月14日に、自身初となるブティックでのランウェイを開催。

最後に、人生をより良くしていくためのメッセージをいただきました。

「人生は常にプレゼンテーションの連続です。あのとき行ったから、見たから、この仕事につながったとか、そういうことの連続ですよね。でも、そこに好奇心や、やる気が必要。私の場合は行って何もやらずに帰るのではなく、ショーをしてきました。自分の選択や行動の一つ一つに意味があって、毎日があると思うんです。今日があるから明日に値打ちがある。昨日までのことがかならずしも役に立つかどうかはわからないけど、ジャッジしながら、自分なりにどうするかが大切だと思います」

Profile

コシノジュンコ|デザイナー

ファッションデザイナーの登竜門「装苑賞」を最年少で受賞。1978年から22年間パリコレクションに参加。以降、NY(メトロポリタン美術館)、北京、キューバ、ロシア、スペインなどでショーを開催しファッションを通じた国際的な文化交流に力を入れる。オペラ『魔笛』や『蝶々夫人』、ブロードウェイミュージカル『太平洋序曲』(トニー賞ノミネート)、DRUM TAOの舞台衣装をはじめ、花火のデザインや国内被災地への復興支援活動も行っている。VISIT JAPAN大使、2025年大阪・関西万博シニアアドバイザー、文化庁「日本博」企画委員。2021年、フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を受章。ほかイタリア文化功労勲章・カヴェリエーレ賞、モンブラン国際文化賞、キューバ共和国友好勲章、文化功労者顕彰。2019年8月、日本経済新聞『私の履歴書』掲載。毎週日曜17時~TBSラジオ『コシノジュンコMASACA』放送中。

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