Meister
#19

ひたむきさこそが世界を変える。
進化し続ける『炎のマエストロ』小林研一郎のリデザイン

小林研一郎|指揮者

『炎のマエストロ』と呼ばれ、日本のクラシック音楽界をリードしてきた小林研一郎さん。その情熱的な指揮は多くの人々の心を打ち、クラシック音楽の魅力をあますことなく伝えてきました。34歳のブタペスト国際指揮者コンクールでの優勝から約50年。83歳となった今もなお、情熱的にタクトを振る小林さんにその歴史と、音楽で社会をリデザインしてきた試みについて、お伺いしました。

体育教諭だった父から聞かされた『月の砂漠』との出会いから生まれた音楽への愛

撮影協力28CiliniC 南青山。

「私の両親はともに学校の先生で、父親が高校の体育教諭。母親が小学校の教諭でした。私が幼い頃はまだ戦時中でしたから、B29の空襲警報が日常生活の一部としてあったわけです。空襲警報がなかったある日の海水浴の帰り、父が私を(母親が勤めていた)小学校に連れて行ってくれたんですね。不思議だなと思っていたら、小学校にあったピアノを借りて曲を弾き出したんです。『月の砂漠』という曲なのですが、突然父がピアノを弾き出したものですからとにかく驚きました」

『月の砂漠』は1923年に作曲された、美しく情緒あふれる童謡です。父親の指先から生まれる旋律に魅せられた小林さんは何度も演奏をせがんだそうです。

のちに分かったことですが、小林さんの父、正毅さんは若き日に音楽家を目指していました。その過去は正毅さんの口から決して語られることはありませんでしたが、もしかしたら『月の砂漠』は幼き日の正毅さんの心に響いた曲だったのかもしれません。

「今はポップスが街中に溢れていますが、僕の頃は『さくら貝の歌』『白い花の咲く頃』のような歌謡曲が身近にありました。クラシック音楽のようなメロディーで、そうした音楽に囲まれて育ったからこそ、ベートーヴェンの『第九』(交響曲第9番ニ短調作品125)に出会った時に、その世界が直截的(ちょくさいてき)に僕の目の前に広がっていったのだと思います」

『月の砂漠』から生まれた音楽への想いは『第九』との邂逅(かいこう)で燃え上がり、その後の人生を大きく変えることになるのでした。音楽の道を志すことを幼いながらも固く決意した小林さんが母親の喜代子さんにねだったのは、玩具ではなく五線紙でした。当時の小林家には、父親の正毅さんが若き日に集めた楽典があり、それを頼りに次々と楽想を五線紙に書き写していったのです。

83歳となった今も、朗々とした口調の小林さん。幼き日の想い出を楽し気に語る。

「どういう風に書けば、どんな音が鳴るのかと探り始めたのです。ただ、あまり音楽に夢中になると父に怒られるものですから、夜中の3時頃に起きて勉強をするんです。小学校四年生の頃でしたね。電気をつけると家族が起きるので、窓から射し込む街灯の光や月の光の下で楽典と五線紙を広げていました」

楽典の他にも、正毅さんはクラシックのレコードを多く所有していました。蓄音機の竹針をレコードに落としては、新しいクラシック音楽に触れる毎日。それらは、音楽家を志しながらも教師の道を選んだ正毅さんの夢の名残。そしてその名残が、小林さんのクラシック音楽への愛を育むことになっていくのでした。

「音楽の勉強をしていくうちに、ピアノで音を出したらどうなるんだろうと気になりましてね。窓ガラスがあちこち割れている校舎に忍び込んで、こっそりグランドピアノを弾いていました。最初は素人演奏でしたが、分からないなりに即興曲を弾いていると、だんだん自分の理想に近づいていくんです。思い描いたことを具現化させていく。この時の体験が、指揮にも生きているような気がします」

作曲を諦め、指揮の道へ。数奇な偶然に導かれた国際指揮者コンクール

その後、小林さんは東京藝術大学の音楽学部作曲科に進学。卒業するまで、指揮をするつもりはまったくなかったそうです。ですが、当時は『現代音楽』が主流。『現代音楽』とは、古典音楽であるクラシック音楽の流れを組みつつも、破壊的前衛的な音楽を生み出そうとするものです。当時は特に先鋭的で、過去から連綿と受け継がれてきた音楽を愛する小林さんにとって、耐えがたい時代でした。

「とてもここには身を置けないと思いまして、作曲を諦めたのです。自宅で音楽を教えたり、ヤマハ音楽教室でピアノを教えたり、食べていくために色々やりました。その内、指揮をしてみるのはどうだろうと思いましてね。作曲科を卒業して2年後。東京藝大の指揮科を受験したのです」

とはいえ、これまで時間を費やしてきた作曲は一人の世界。大人数を相手にする指揮の世界とはまったく異なっていて、その差に苦しんだそうです。29歳で指揮科を卒業するものの、オーケストラを指揮する機会もなかなか得られない状態。芥川也寸志※1さんや黛敏郎※2さんといった先生方の計らいで『題名のない音楽会』や『私の音楽会』で細々と指揮をとりながら、5年が経過しました。

34歳になり、いよいよ食べていくのも難しくなってきた。そんな時に『ブタペスト国際指揮者コンクール』の募集を目にします。

※1 作曲家、指揮者。代表作に映画『八甲田山』、大河ドラマ『赤穂浪士』など。数々の音楽番組で司会を務めた。

※2 作曲家。戦後のクラシック音楽、現代音楽をけん引した。代表作は『涅槃交響曲』

精神を統一させるマエストロ。

「国際指揮者コンクールを受けるには、現在の地位や、どこで指揮をとったのか、指揮をとったプログラムがたくさんあるのかなど、一定の経験が要求されます。しかも当時は29歳の年齢制限があり、諦めるしかない。いつものようにうんざりしながら応募要項を見ていると、ブタペスト国際指揮者コンクールは第一回目だということもあってか、なんと!年齢制限が35歳になっていたんです。これなら受けられると思ったら、締め切りがすでに10日ほど過ぎていましてね。落胆していたまさにその瞬間、教え子が結婚の報告に来たんです。これが、ちょっとしたドラマの始まりでした。締め切りのことを嘆くと、“僕が慶応大学にいた時、隣の席に座っていたのがブタペストの大使の息子でした。お父さん(ブタペスト大使)に口添えしてもらえるように頼んでみます”と言ってくれたんですね」

在ハンガリー日本大使であった都倉大使と、そのご夫人の尽力が実り、小林さんは本来7人の定員枠を越えた8人目として異例の参加を許されます。それは、コンクールまで残り一ヶ月半というタイミングでした。

コンクールの課題曲は膨大な数があり、その全てを習得するにはあまりにも時間が限られていましたが、小林さんは昼夜を惜しんで課題曲の勉強に打ち込みます。

「コンクールでは当日、課題曲はくじ引きで選ぶ形式になっていて、一次予選で引き当てたのはベートーヴェン『交響曲第1番第2楽章』とロッシーニ『セビリアの理髪師序曲』。ですが、『交響曲第1番第2楽章』はベートーヴェンの凄みを感じる曲で、当時は苦手意識が強かったのです。しかも、くじ引きの順番に指揮をとるのがルールでした」

コンクール当日、90人ものオーケストラが待つ舞台への歩みを進める中、小林さんが思いついたのは“曲順を引っくり返す”ことでした。

「ベートーヴェンから始めたら、オーケストラは大した指揮者じゃないと思ってしまうかもしれない。だけど、得意意識のある『セビリアの理髪師序曲』なら、オーケストラの受け止め方が変わるかもしれないと思ったんです。舞台の端から人が飛んでくるのも構わずに、“セビリア!”と声をあげ、タクトを振り降ろしました。『セビリアの理髪師序曲』はイタリアの曲なのですが、腕を上げた瞬間、イタリアの真っ青の海のような音が押し寄せてきたんです。これがヨーロッパの伝統音楽なのだという感動に包まれながら、次々とエスプレッシーヴォ(表情豊かに)やピアニッシモ(きわめて弱く)など、とにかく知っているイタリア語を発していきました。すると、どんどんオーケストラの音が冴えていくんです」

コンクールでは小林さん以外にも、様々な指揮者が出場しています。その多くが演奏を中断しながら、指示を飛ばしていました。ところが、小林さんは演奏を止めることなく、曲を進めていく。小林さんはフラストレーションから解放されたオーケストラと一体になり、一次予選を突破。そしてその勢いのままに、二次・三次と勝ち進み、優勝を勝ち取るのでした。

“心のひだ”まで届けるために。円熟していく『炎のマエストロ』の指揮

コンクール優勝後、小林さんの道は一気に開けていきました。日本はもちろん、海外でも広く名前を知られることとなり、世界各地から招聘されたのです。いつしか『炎のマエストロ』と呼ばれ、日本の指揮者の第一人者にまで登りつめた小林さんは、「ここまで来れたのは自分の力だけではない」と語ります。

「指揮の先生、作曲の先生に本当に恵まれました。芥川先生や黛先生、そういう方々の大きなお力で引き上げていただきました。先生方や両親、叔母に支えてもらった人生なんです。叔母は忙しかった母に代わって僕を見守ってくれた、もう一人の母親でもあります。いい人、いい環境に恵まれ、本当にありがたい時間を過ごしてきました」

83歳となった今も指揮棒を振り続ける小林さん。コンサートでは、終演後の舞台でオーケストラに深い感謝を伝える小林さんの姿を見ることが出来ます。

「主役はオーケストラの皆さんなのです。皆さん、ひとり、ひとりが猛烈な技量の持ち主です。でも、その日の体や心の調子、僕の感覚との調整具合によって、コンディションが変わってきます。僕の役割は皆さんをまとめて、凝縮した音を聴衆に届けること。そのために大事なのは、オーケストラを“乗せる”ことです。オーケストラは演奏を中断されるのを嫌がります。何回も続くと指揮者への嫌悪感が生まれてくるわけですね。僕はとても声が大きいものですから、演奏を止めることなく意図を伝えることができます」

もう一つ大事にしているのが、作曲者が曲に込めたメッセージを聴衆に届けること。オーケストラとの距離感と、楽曲への理解。この双方の高まりが、演奏を更に高レベルなものへと押し上げていきます。

そのように聴衆の“心のひだ”まで届ける演奏をするために試行錯誤を重ねていくうちに、見える景色が変わってきたと小林さんは言います。

「アフリカに行った時に、ヌーの群れを見たことがあるのですが、彼らは雨が降りそうな場所にひたむきに歩いていくんです。そういうひたむきさが紡ぎ出す世界は面白いと思っています。楽曲への理解も同じで、長いことひたむきに指揮をさせていただいていますが、階段を一歩ずつ登っていくような感覚です。階段を上ると、景色がどんどん変わって豊穣になっていく。楽曲への理解はもちろん、オーケストラとの距離感も近づいていくのです」

音楽を通して、社会をリデザインしていく

2005年から始まった『コバケンとその仲間たちオーケストラ』。このオーケストラに込められた想いは、バリアフリーな世界の実現。その想いに共感した人々が集い、プロアマ、健常者障がい者を区別することのないオーケストラを結成しています。

これまでのオーケストラとは異なる、リデザイン的な思想で結成された『コバケンとその仲間たちオーケストラ』は、聴衆も従来のコンサートとは異なっています。

「身体に障がいをお持ちの方はもちろん、発達障害をお持ちの方もお招きしています。『コバケンとその仲間たちオーケストラ』の公演では声を出しても、時には立ち上がっても大丈夫です。素晴らしい音楽を平等に分かち合って欲しいのです。障がいをお持ちの方が特別視されるのではなく、それこそ街中で気軽に声をかけられるような社会を、この活動を通して、作っていきたいと思っています」

©山本倫子

『コバケンとその仲間たちオーケストラ』は被災地で苦労している人々の元に訪れ、無料で演奏をすることもあるそうです。

垣根なく、どんな状況にあってもクラシック音楽を楽しめる場を設ける。これは『コバケンとその仲間たちオーケストラ』だけではなく、小林さんが指揮をとるすべての公演に通じる精神なのかもしれません。

最後に、人生をリデザインするためのヒントについてお話いただきました。

「『コバケンとその仲間たちオーケストラ』はプロだけで構成されている訳ではありませんが、ひたむきに演奏に取り組み、切磋琢磨することで、それぞれの心に良い影響を与えます。そうすると、それが聴衆にも伝わって、プロとはまた違う世界が広がっていくのです。これはオーケストラに限ったことではなく、ひたむきに取り組み、他者と関わってくことで、良い人生になっていくのではないでしょうか」

Profile

小林研一郎|指揮者

“炎のコバケン”の愛称で親しまれる日本を代表する指揮者。東京藝術大学作曲科、及び指揮科の両科を卒業。1974年第1回ブタペスト国際指揮者コンクール第一位、及び特別賞を受賞。2002年プラハの春音楽祭では東洋人初のオープニング『わが祖国』を指揮して万雷の拍手を浴びた。

これまでにハンガリー国立フィル、チェコ・フィル、アーネム・フィル、ロイヤル・コンセルトヘボウ管、フランス国立放送フィル、ローマ・サンタ・チェチーリア国立管、ロンドン・フィル、ハンガリー放送響、N響、読響、日本フィル、都響等の名立たるオーケストラと共演を重ね、数多くのポジションを歴任。

ハンガリー政府よりハンガリー国大十字功労勲章(同国で最高位)等、国内では旭日中綬章、文化庁長官表彰、恩賜賞、日本芸術院賞等を受賞。

2005年、社会貢献を目的としたオーケストラ『コバケンとその仲間たちオーケストラ』を設立、以来全国にて活動を続けている。

CD,DVDはオクタヴィア・レコードより多数リリース。著書に『指揮者のひとりごと』等がある。

現在、日本フィル桂冠名誉指揮者、ハンガリー国立フィル・名古屋フィル・群響桂冠指揮者、読売日響特別客演指揮者、九響名誉客演指揮者、東京藝術大学、東京音楽大学・リスト音楽院名誉教授、ローム ミュージック ファンデーション評議員等を務める。

オフィシャルホームページ

https://www.it-japan.co.jp/kobaken/

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