Meister
#11

いつだって“推し”に夢中。
音楽評論家・湯川れい子のリデザイン

湯川れい子|音楽評論家

戦後初の女性音楽評論家としてデビューした湯川れい子さん。キャリアをスタートさせた1960年代は、ビートルズやエルヴィス・プレスリーなど、音楽史上に残るアーティストが輝いた時代でした。世界規模の戦争を経て、音楽がリデザインされる様を目の当たりにしてきた湯川さんには、数々のヒット曲を手がけた作詞家としての顔もあります。60年以上のキャリアの中で日本の音楽シーンを牽引してきた湯川さんに、お話を伺いました。

女性初の音楽評論家として、あらゆることに体当たりでチャレンジ

音楽評論家で作詞家として知られる湯川さんですが、女優としてのデビューが先にあったことは意外と知られていません。湯川さんがデビューしたのは1953年。第二次世界大戦終戦後から8年後のことでした。日本が経済的な立て直しを図る中、女性の社会進出にこれといったロールモデルはありませんでした。「女性が活躍できる職業は女優さんくらいしかなかった」と、湯川さんは振り返ります。

湯川さんが女性初の音楽評論家に転身するきっかけとなったのは、ジャズとの出会い。当時の有楽町駅前には、伝説のジャス喫茶「コンボ」がありました。「コンボ」は、黒人の米兵たちが持ち込む最新のジャズのレコードを聴ける貴重な場。音楽の最先端が濃縮された場所でもあったのです。米兵のほかには、サックス奏者の渡辺貞夫さんやピアニストの穐吉敏子さんといった日本を代表するジャズ・アーティストの顔ぶれもあったのだとか。

ジャズの熱気に溢れた小さく暗い店内で、湯川さんは音楽にのめり込んでいきます。

若き日の湯川さんとリンゴスター

「1杯30円のコーヒーを飲みながら、帰るギリギリまで夢中でジャズを聴いていましたね。当時はまだ学生だった大橋巨泉さん、東京大学の在学中から音楽評論を書いていた相倉久人さんもいらっしゃいました。気づいたら巨泉さんもラジオ番組に出演して活躍されていて、お二人に触発されるように、『スイングジャーナル』誌の読者論壇に投稿したんですね。そうしたら、2回連続で掲載されちゃって(笑)。編集部から呼び出しを受けて、本格的に書いてみないか、と言ってくださったのが、当時の編集長だった岩浪洋三先生でした。のちに大評論家となられる方です。結果、、音楽評論家が職業となり、自分の生涯のものになるなんて夢にも思っていませんでしたね」

音楽評論家として歩み始めた湯川さんが最初に引き受けたのが、アート・ブレイキー&ザ・ジャズメッセンジャーズの来日時のインタビューでした。外国人アーティストへのインタビューは、今でこそ当たり前ですが、当時は、まわりを見渡しても誰もやったことのない仕事。何もかもが手探りだったそうです。

「引き受けたものの、さあどうしようかと困りました(笑)。今は気軽にテープレコーダーを持ち運べますけど、あの時代は大きくて重いものばかり。かといって筆記のメモだけではインタビュー内容を拾いきれません。持ち運べそうな機材を見つけることから始めました。なんとか三軒茶屋で見つけて2年ローンで購入した後は、インタビューのための質問作り。私の母は戦争で焼け残った屋敷を学生さんに貸し出していて私もその収入で暮らしていたので、下宿していた一橋大の学生さんに手伝ってもらって英語で質問を考えました。今思えば、とんでもないことですね。アート・ブレイキー&ザ・ジャズメッセンジャーズが日本に来るだけでも大騒ぎ。それなのに、インタビュアーは手探り状態なんですから(笑)。でも、その時の取材が『スイングジャーナル』誌や産経新聞などで記事になって、実績になりました」

「ラジオのDJも依頼されるようになったんですが、これもすべて手探りでした。というのも、それまでDJはアナウンサーの仕事だったんですね。依頼してきた放送局も半信半疑だったはずですが、テレビの普及でラジオは下火。予算も減っている状態でしたから、レコードを持参し、話をしてくれる人材は重宝されたんです。お金がかかりませんし、何よりも、女性というのが珍しかったんでしょうね」

女性の働き方にロールモデルがなく、日本の大衆文化も大きな変化を迎えていた時代。体当たりで仕事をこなす湯川さんは、多くの現場に呼ばれるようになります。DJから映画評論、雑誌の座談会まで活躍の場を広げた次に待っていたのは、テレビの世界でした。

「世界的にツイスト(ダンス)ブームが起きて、日本でもインク・スポッツという三人組のアメリカのグループが来日した時に、レコード会社がが銀座のキャバレーを借り切って、ツイストのデモンストレーションを行ったんです。その場に呼ばれていたのは、ほとんど大御所の音楽評論家。駆け出しは私くらいでした。アーティストたちも声をかけやすかったんでしょうね。踊るように誘われて、見様見真似でツイストを踊ったんです。それがTBSのプロデューサーの目に留まって『10人抜きのど自慢』という番組の審査員に抜擢されることになりました」

『10人抜きのど自慢』の審査員は、橋幸夫さんや吉永小百合さんの楽曲などを手掛けていた作曲家の吉田正さん、宝塚の劇作家・演出家の内海重典さん、作曲家のレイモンド服部さん、山本丈晴さんといった重鎮たち。湯川さんは26歳という若さで、彼らと肩を並べたのでした。1962年から始まった番組は6年間続き、湯川さんの顔はお茶の間に広く知られることになります。

エルヴィスあってこそのビートルズ。62年叫び続けた情熱

第一線で走り続けてきた湯川さんが、一度だけすべての番組を降り、筆も折り、ほぼ丸2年間、仕事をストップしたことがあります。それは、ウッドストック・フェスティバルが開催された1969年のこと。日本では学生運動が活発で、三島由紀夫さんと東大全共闘の討論が行われた年でもあります。自由を象徴するはずのロックンロールは、反体制の革命を起こすムーブメントとして扱われていました。そうした日本の風潮に嫌気がさし、湯川さんは活動を休止したのです。

様々な文献を収蔵している本棚。この段にはビートルズに関する書籍が所狭しと並べられている。手前に見えているのはExhibitionism-ザ・ローリング・ストーンズ展の図録。

「日本のロックの幕開けは、1964年にデビューしたビートルズでした。1968年に発売されたビートルズの『ホワイトアルバム』に『レボリューション』という曲があります。この曲は文化大革命で起きた破壊行動に対してのアンチテーゼです。それなのに、日本では学生運動の材料の一つになってしまっていたんですね。ジョン・レノンも、『“毛沢東語録”を振りかざしている代名詞のように扱われるのは御免だ』と言っています。私自身、音楽はそんな偏狭なものじゃないという思いがありました」

諸外国の情報が日本にも届くようになったのは、東京オリンピックが開催された1964年のこと。それ以前の時代は、新しい音楽に触れるためには米軍のラジオを聴くしかありませんでした。つまり、多くの日本人にとって、洋楽を含めた音楽史が本格的に始まったのは1964年以降とも言えるのです。そのため、1954年に登場したエルヴィス・プレスリーが50年代に巻き起こした革命にも近いロックンロール旋風は、日本には届いていませんでした。

ロックンロールで大きな影響を与えたエルヴィス・プレスリーの音楽のバックボーンには、アメリカ南部の黒人たちが奏でた音楽が息づいています。今でこそ、音楽に肌の色の違いを持ち込むことはなくなりましたが、アメリカでは1890年代から黒人分離政策が立法化されており、奇しくもビートルズのデビュー年である1964年まで撤廃されなかったという歴史があります。

「50年代エルヴィスが大バッシングに遭い、ニュージャージー州知事が彼のLPを叩き割るキャンペーンにまで発展したことがあります。背景にあったのは、アメリカでの黒人分離政策でした。それでもエルヴィスの音楽は多くの人の心を揺さぶりました。その中の一人であるジョン・レノンが『エルヴィスがいたからビートルズがある』と言ったのは有名な話なのですが、そうした背景も知らずにビートルズにいきなり触れた日本では理解してもらえなかったのです。しかも、その頃のエルヴィスは契約に縛られ、ライブが出来ない状態にありました。顔を見るのがつまらない映画ばかりだったことも影響していたのでしょう」

日本でのエルヴィス・プレスリー、ロックンロールの受け入れられ方に苦々しいものを感じていた湯川さんを再び音楽の道へと戻したのは、やはりエルヴィス・プレスリーでした。エルヴィスが契約から解放され、ステージへ復帰する様を収めたドキュメンタリー映画『エルヴィス・オンステージ』が日本で公開された際に、「エルヴィスには湯川さんしかいない」と呼び戻されたのです。そうして復帰したのが1970年。1973年にはラスベガス公演中のエルヴィスに、湯川さんが結婚証明書にサインをしてもらうなど、深い結びつきがあります。

エルヴィス・プレスリーと湯川れい子さん。結婚証明書にエルヴィスのサインをもらっている。

「昨年公開された映画『エルヴィス』では日本語監修をさせていただいたのですが、エルヴィスの音楽の背景が理解できるシーンが出てきます。エルヴィスについて叫び続けた結果、62年目にしてようやく理解されるようになりました。叫び続けてよかったなと思いますね(笑)」

自分が心からいい!と思ったものしか推してこなかった

音楽評論家として多くのミュージシャンを日本に紹介してきた湯川さんには、作詞家としての顔もあります。作詞を手がけた最初の大ヒット曲『涙の太陽』は、「ギラギラ太陽が燃えるように」という歌い出しが印象的。ですが、この歌には英語歌詞のものが存在しており、イギリス人ハーフのエミー・ジャクソンさん(本名:エミー・イートン。日本名は深津エミ)がアメリカ盤として発売。60万枚を越える大ヒットになります。それを青山ミチという日本の新人がカバーして日本語で歌いたいと申し出たのですが、当時の音楽業界はレコード会社との専属契約制を取っており、湯川さんのようなフリーの作家は自由に動けないという事情がありました。その上、英語の歌を日本語に訳して歌うとなると、訳詞に印税はつきません。つまり、そうなるとレコード会社に所属しているような作詞家に訳詞を頼むことなど不可能なのです。そのためR.H.RIVERSという英語名で詞を書いて、湯川さんが初めて日本語で書いた作品になりました。

その日本語版の『涙の太陽』も大ヒットし、湯川さんはそこから売れっ子作詞家へ。1980年代になるとCMソングの依頼としてシャネルズ(後のラッツ&スター)のデビューソング『ランナウェイ』を手掛け、ミリオンヒットを記録。その後、シンディー・ローパーのインタビューのためにニューヨークへ行くフライトの中で手がけたのが、アン・ルイスのアルバムの収録曲で、後にヒット曲となる『六本木心中』でした。

「当時、女性が歌う曲は未練たっぷりで男の人にすがりつくような曲が多かったのですが、ご存知のように、女は最後まで男に尽くしたとしても、最終的に『こいつはダメね』と思って別れたら、後ろは振り向かないですよね(笑)。派手に見えるけど、心情は純でかわいくて、涙ぐましい女の姿として、シンディーとアンと私の中にある女の本質みたいなものを自由に書いたのが、『六本木心中』であり、『あゝ無情』でした」

それまでの女性像を覆す曲は、現代においても色あせることなく聴き継がれています。作詞家としても多くの功績を残した湯川さんは、日本の音楽史を変えた一人であるといっても過言ではありません。そんな湯川さんの、音楽への情熱はどこから来ているのでしょうか。

「マイケル・ジャクソンのアルバム『スリラー』がリリースされた1982年に、ライナーノーツを書きました。私はジャクソン5の頃からマイケルを聴いていたのですが、日本では1960年代のモータウン時代で終わっている人という扱いだったんです。もう全く取り上げてくれる媒体が無かったのが悔しくて、ライナーノーツには、これは絶対にギネスブックの記録を変えるだろうと、それがどんなにすごいアルバムかを説きました。こんな風に、プレスリーやマイケルにしても、自分がいいと思ったものしか推してきませんでした。つまり評論家というより、ずーっと、“推し”に夢中だったということです(笑)」

Billboard Hot 100年鑑の隣には、エルトン・ジョンとのツーショット写真が飾られている。

“推し”に夢中。それはどんな世代にも通じる、根源的なエンターテインメントへの情熱とも言えます。湯川さんの情熱は同時代を生きた人々にも伝播しており、今年の初めに行なわれた「全米トップ40~放送開始50年記念イベント~追憶の甘い日々」では、当時の熱狂的なファンが大勢銀座に集まりました。

「1972年から14年間続いた『全米トップ40』は、ラジオを通して毎週世界のトレンドを運んでくれました。それを感受性が一番強い時期に受け取った月日の中には、リスナーそれぞれの青春が詰まっています。今も自分の人生の1ページとして大切にしてくれていて、やっていてよかったと心から思います。リスナーとともに、泣くときは一緒に泣き、怒るときは一緒に怒る。“推し”への想いをリスナーと分かち合う。そんな14年間でしたね。あれから月日が経ち、肉体的には年齢相応となりましたが、未だに“推し”がいますし、精神的には枯れていないかもしれませんね(笑)」

幸せの「あいうえおの法則」。選択の積み重ねが人生をデザインする

湯川さんは87歳の今もピンヒールを履きこなし、その目にはキラキラとした輝きが詰まっています。その秘訣は、“推し活”の他にもありました。それが、幸せの「あいうえおの法則」です。

天井に飾られている、若き日の湯川さんとエルヴィス・プレスリーのパネル。

「『会いたい人に会いたい』『行きたいところに行きたい』『嬉しいことがしたい』『選ばせてもらいたい』『おいしいものが食べたい』の5つで、「あいうえおの法則」です。この中でも大事なのが、「あ」と「う」と「え」です。「あ」は、とってもシンプル。人から『絶対あの人と会っておいた方がいい』と助言されたこともありましたが、本当に自分が会いたいと思う人に会う方が大事なんです。大好きなエルヴィスに会うまでに15年間かかりましたが、お会いした時にただ握手して終わるのではなく、向こうからも、『お待ちしていました』と言ってもらうためにキャリアを積みました。振り返ってみると、その間のプロセスがとても重要だったことがわかります」

「嬉しいことをしたい」については、「まわりの人も一緒に喜んでくれないと意味がない」からです。常に自分にとって嬉しいことなのか、今やらないといけないことなのかを自問自答するのだそうです。そして、湯川さんにとってもっとも重要なのが、「選ばせてもらいたい」の「え」。

「朝何時に起きて、今日はどんな服を着て何をするか。そうした選択が蓄積されて、何十年か後の自分の人生を形作っていきます。今、身に起きていることは、自分が選んだ結果なのだと思えば後悔もありませんよね」

一度しかない人生で何をするのか。湯川れい子が考える、リデザインするための生き方

「みんな公平に人生は一度きりしかないし、かならず逝くことが決まっています。先日の西郷輝彦さんを偲ぶ会での91歳の大村崑さんのスピーチが素敵で、『かならずみんな死ぬんだから』と冒頭におっしゃったのが印象的でした。それから昔、当時87歳の日野原重明先生に対論集の依頼をしに行くと、5年先までスケジュールが詰まっていました。思わず、『先生、そんな先まで生きていらっしゃると思います?」と聞いちゃったんです(笑)。すると先生は笑いながら、『僕が今これを断ったら、このプロジェクトはなくなるかもしれない。でも、今5年後にスケジュールを入れておけば、僕が死んでもプロジェクトは残って、きっと誰かがやりますよ』とおっしゃったんです。確かにそのときにどうなるかなんて、誰にもわかりません。誰にでも死は訪れるものだからこそ、やりたいこと・やるべきことに常に取り組む。そういう生き方が素敵じゃありませんか?」

Profile

湯川れい子|音楽評論家

東京都目黒区生まれ。ジャズ専門誌 『スウィング・ジャーナル』への投稿で注目を集め、1960年代からジャズ評論家として活動。その後、17年間 「全米TOP40」 (現ラジオ日本)をはじめとするラジオのDJDJを務める。早くからエルヴィス・プレスリーやビートルズを日本に広めるなど、独自視点のポップス評論・解説により、国内外の音楽シーンを広める。 作詞家としては、『涙の太陽』『ランナウェイ』『ハリケーン』『センチメンタル・ジャーニー』『六本木心中』『あゝ無情』『恋におちて』などを手掛け、「FNS歌謡祭音楽大賞最優秀作詞賞」や「JASRAC賞」、「オリコン トップディスク賞作詞賞」などのプラチナ・ディスク、ゴールド・ディスクを数多く受賞。

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